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情報主義社会の構築方法と、情報を用いた「報徳仕法」構想に関する素案 2025 #4

長谷川 雄治
読了見込 22
国際情勢も国政も先が読めない今日だからこそ、インターネットの片隅で次の社会構想を好き勝手に放言しようという取り組み。情報や報徳仕法の再解釈や、詰めの甘い思想を素人が垂れ流していくシリーズ第四弾。

第二章 情報の価値と未来予測

第四節 ノーボーダー、脱権威化が進むフラットな未来予測

本稿における未来像については、すでに2022年の時点でいくつかの断片を提示していた。

これらはいずれも、自他の間に引かれてきた境界線が、今後ますます意味を成さなくなる未来を指摘したものである。
情報の発信や編集、共有するための技術が、かつての支配者層やテクノクラートの独占から解放され、ある種の民主化を果たした現代において、その影響力によって支えられてきた「特別な権威」や「特例を認める線引き」は、着実に弱体化の一途を辿っている。

さらに、誰もが相互に監視しあう「万人による緩やかなパノプティコン」が実現し、少しでも隙を見せたり、気に障る言動とみなされれば、フェイクを交えた社会的な抹殺すら起こり得る今日では、結果的に誰もが相対的な立場で振る舞うしかないフラットな空間が形成されつつある。

むしろ、そうした未来予測が先にあったからこそ、本稿の構想が自然と立ち上がったとも言える。

情報産業の拡大や情報資本主義の到来によって、取引や購買のプロセスは長期化し、もはや「売ったら終わり」、「買ったら終わり」といった振る舞いすら成立しない時代となっている。
日本を含む先進各国では、出生率の低下と人口減少の波が避けられない中、従来のように「大勢に売る」戦略から、「限られた人と関係を深める」戦略への転換が迫られている。

具体的には、One to Oneマーケティングや、顧客生涯価値(LTV)を高めるアプローチへのシフトを避けられず、売る前も売った後も、誰がどこで見ているか、どこから関係を深めていくか、余談を許さない状況ともなっている。

つまり、「今、目の目にいる相手」が顧客でなかったとしても、その人の周囲まで含めたネットワーク全体、むしろ社会全体が潜在的な見込み顧客として地続きであるという構図が、当たり前になりつつある。そして、一度でも売買関係を持った相手には、その後も長く「顧客だった」という履歴がつきまとう。

SNSの発達とマスメディアの影響力低下、さらにはメディア産業そのものに対する不信感の醸成という流れも、見逃すことはできない。
もはや、社会を構成する大衆の目や耳、そして口を塞ぐことは不可能となった。
行政府がマスメディアを通じて世論誘導を図ったり、既得権益層が自分たちに都合のいいアジテーションや情報操作を仕掛けたとしても、「それはおかしい」、「事実とは違う」といった市政の知識人やリテラシーの高い大衆からの反発は止められない。

実際に、米国の大統領選挙や、日本の国政選挙、あるいは注目を集める自治体の首長選挙などにおいて、かつてなら信頼をおかれていたはずのマスメディアによる事前予測や情勢調査が、蓋を開けてみれば大きく乖離していたという例も少なくない。

情報の非対称性や、社会的な権威によって自他の間に一線を引く構造──すなわち「自分たちは舞台に立つ役者であり、大衆は観客席からそれを見上げるだけ」という劇場型の関係性は、すでに成立しえない。
水平からも垂直からも──360度から観察される全天周型の舞台になっているどころか、舞台袖や楽屋といった裏側すら、完全には隠しきれない時代となっている。

ある種の聖域として長く守られてきた学校内の出来事も、今や外側と同じ法規が適用されつつある。教会のような宗教施設ですら、内部で秘匿されてきた犯罪行為が暴かれ、糾弾されている。

こうした変化は、単に「個別の不祥事」や「権威の失墜」を現しているのではなく、社会から聖域が失われつつあることの兆候である。特例も、権威も──もはやどこにも存在しない。社会分断が叫ばれて久しい中、逆説的に思えるかもしれないが、本質的なトレンドはノーボーダー。境界線や、それを引くペンの力は次第に消えていく。

そんな兆候を前にしても、売り手と買い手の間に線を引き、「こうすれば売れる」や「買い手を誘導して購入させられる」といった思考を続けたり、「無知なユーザーを教育してやる」といった上から目線のスタンスは、果たして適切だろうか。バックヤードだからと油断して、陰口を叩いたり、顧客や取引先、商品を軽んじても問題ないのだろうか。──答えは明らかにNoだ。

多少の不公平さがあっても、権威が機能していた山羊座の時代から、私たちはすでに水瓶座の時代へと突入している。
自由・平等・博愛、そして知性と公平性を重んじる水瓶座に、根拠や敬意を欠いた形式的な権威付けは適合しない。自他の間に格差はなく、どこまで行っても対等であり、「法の下の平等」も万人に適用する方が、水瓶座らしい。

外的な要因による上下関係や、「私とアナタ」という立場の違いに意味を持たせたりすること自体が、今後ますます成立しなくなる──これが、私の未来予測である。

第五節 情報の価値基準

第二章の第一節から第三節を通じて、「情報」を流通財、あるいは通貨として扱うための3つの補助線を提示してきた。前節で未来予測という視点を挿し込んだのは、それが単なる余談ではなく、次なる基準を示唆する「第四の補助線」のヒントとなり得るからである。

すでに現実の一部となりつつあるノーボーダーの社会──緩やかなパノプティコン、ITリテラシーと情報発信力の民主化、SNSによる言論空間のフラット化。そうした環境では、私と他人を分ける境界線も、陽炎のように揺らぎ始めている。

あらゆる関係性が相対的になり、どちらが上で、どちらが下かといった向きも曖昧になっていく世界で、情報の価値や、人と人との関係性を見極める尺度を、どう見出せば良いだろう?

──あくまでも私の個人的な見解に過ぎないが、そのポイントとなるのは「濃度」にあると考えている。あるいは、私と他人を比べたとき、どちらがより前にいるのか。あるいは、どちらが相手の背中を追いかけているのか。そういう形で立ち現れるのではないか。

特定の分野、特定の領域で、同じ直線の上に立っていたとしたら、絶対的な数値の大小や、正の方向か負の方向かといった区別には、さほど意味はない。自分よりも前に誰もいなければ、その瞬間、その領域における第一人者はアナタだ。そこから後ろを振り返って見える顔ぶれは、アナタと同じ方向を見ている同好の士、すなわちフォロワーとなる。

非常に近いフォロワーや、付き合いの長いフォロワーがいれば、遠い親戚のように遥か彼方で繋がっているだけのフォロワーもいるかもしれない。昨日今日に関係が始まったばかりの新参者もいれば、かつては背中を追いかけていたはずが、いつの間にか追い抜いて立場が逆転している場合もあるだろう。

そして、ジャンルや領域が変われば、今度はアナタが誰かのフォロワーになる。誰もが、ある場面では師匠や先駆者、リーダーとなり得るし、一歩でも違う領域へ足を踏み出せば、弟子やフォロワーへ変化する──立場も順位も流動的に入れ替わり、常に変化する関係性。つまり、「リーダーとフォロワー」(と、フォロワーの中での距離感や関係性の差)の構造であれば、ノーボーダーな社会においても有効なフレームとして機能し得るのではないだろうか。

ちなみに、「同好の士」と言っても、同じジャンルや領域の中でも専門領域や好みの傾向、楽しみ方は千差万別。仮に「赤が好き」な人たちだったとしても、「赤」の色味一つをとってみても、無限に近いバリエーションが存在する。「#f00」が良いという人もいれば、禁色となっていた真紅や、朱色のような明るい色を好むかもしれない。CMYKのマゼンタはかなり紫やピンク寄りだが、これを「赤」として好きな人もいるだろうし、ワインレッドや信号機のような赤い光、マジョーラカラーのような特殊な塗料の赤が良いという可能性もある。

自動車の車体のような素材に吹き付けた赤を好む人もいれば、トマトや食材の赤、Tシャツなどの赤い衣服や、それらを雨や水に濡らした色合いを好んだり、ウェザリングとして汚した赤にこだわりを持つ人だっているだろう。

それらを日々探究し、常に新しい物を生み出すことに喜びを感じる人、同じものを作り続けて誰かを喜ばせたい人、あるいはそれらを受け取ることに楽しみを見出す人もいる。何にこだわりを持ち、何を感じ取るかも十人十色であり、その非常に微細な違いに応じて、その筋の専門家が無数に生み出される。

誰もが同じ「赤」を扱っているように思えるが、実はそれぞれが「自分の好きな赤」を語っている。各々が自分の好みに関する専門家であり、リーダーである。その微細な違いをリスペクトし合うことで、新たな「情報」が生まれ、お互いのエピジェネティックチェーンに追加されていく。

一人ひとりの内なる履歴が影響し合い、さらに新しい情報を生み出すかもしれないし、偶然その場に居合わせた者同士が、その場限りのセッションとして、創発的な連鎖を引き起こすこともあるだろう。

そうした、非常にマニアックなこだわりや偏執性──変態的とも言えるアマチュアリズムと多様性の極致こそが、「情報の価値」を考える上での重要なポイントとなる。

ここで基盤となるのは、やはり「水瓶座」的な価値観である。

純粋な知的好奇心を満たすものや。科学的な妥当性が認められる学術的な「正しさ」。あるいは、先ほど述べたような「その人らしさ」が溢れる奇抜さや新奇性が、誰も到達していないような前衛性──そうしたものの中に見出される、「面白さ」が「価値」算定の基準となるだろう。

もちろん、注意点もある。
例えばソーカル事件にみられるような、「もっともらしい」言説の空虚さ。あるいは生成AIが作り出す、事実のようで事実でない「それっぽいだけ」のハレーション的な回答。精巧に偽装されたフェイク情報など。
水瓶座的な情報評価は、それらが混入しても検知しにくいというリスクも孕んでいる。

それでも、既得権益や形式的な序列に従い、先人の顔色を伺いながら「正解」や「褒められる答え」を模索する山羊座的な態度よりは、遥かに健全だろう。

他者から与えられた評価軸で価値を査定するのではなく、自分自身のこだわりや物差しを通じて、同好の士が互いに持ち寄った「お宝」を鑑定し合う──そんな水瓶座的な情報の価値判断こそが、情報主義における価値判断の主流となるだろう。

微細な違いを「オモロいやんけ」と尊重し合える空気こそ、中身の多様性を認め合い、求め合うことにも通じるのだから。

ただ、取引の公平性や公正な価値判断、通貨や流通財としてスムーズな交換を図る上で、その都度、小さな競りや値引き交渉のようなやり取りが発生するのは、効率的とは言い難い。

現在の民事裁判や公正取引委員会、公証人制度や法務局、国際取引における国際司法裁判所のように、異議申し立てやトラブルの解決を図る「公的な仲裁装置」は不可欠だろう。

同様に、『新世紀エヴァンゲリオン』に登場するMAGI のように、価値の評価軸に応じた複数のAIによる「簡易査定システム」を構築しておくことも一案だ。
例えば、「学術的観点」を重視するAI、「市場経済的価値」を重視するAI、「その筋の専門家」としての目利き的査定を行うAI──それらが相互補完的に作用し、定量的で迅速かつ公平な評価、取引を支えてくれるだろう。

ただし、どれだけAIを教育したところで、一人ひとりの「好み」や「偏愛」までは査定できない。
最終的な価値判断には、やはり人間による交渉や対話の余地が残される。

余談も余談だが、誰に評価されるか、あるいは誰に点数をつけてもらうかという点も、マニアックな世界や「道」の世界では極めて重要だ。

例えば、近年の『M-1グランプリ』では、歴代のチャンピオンが決勝大会の審査員を務めている。それはそれで理に適ってはいるが、やはり「ダウンタウンの松ちゃん」や島田紳助に評価されたり、認められたい──「お前、オモロいな」とか「オカシイ奴やな」と笑われたかったお笑い芸人もいるだろう。

又吉直樹の『火花』が芥川賞を受賞した時、日本の文壇は経済性に屈した。中身が伴わない『新聞記者』が 日本アカデミー賞を受賞したとき、映画界の権威も揺らいだ。ポリコレが蔓延し、ウィル・スミスの妻をネタにした出来事が起きた時点で、アメリカのアカデミー賞も終焉したように思える。

私は、そんな「権威」に傅いてまで、褒められたいとは思わない。
認められるために顔色を伺うくらいなら、鼻白む方を選ぶ。
むしろ、涙が出るほど笑われることを選びたい。

そうした反骨心もまた、水瓶座的な態度であり、情報主義における健全な在り方なのだと思う。

思想・構想

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長谷川 雄治(仮面ライター)

Yuji Hasegawa (KamenWriter)

昭和63年生まれ。大阪電気通信大学 総合情報学部 デジタルゲーム学科卒。
2011年からWeb制作に従事。コーディングやWordPressのカスタマイズ等を主に経験を積む。2013年、仮面ライターとして独立開業。マーケティングや企画、上流も下流も幅広く対応。
コーディングとコンテンツ制作の同時提供を考えるヘンな人。

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