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情報主義社会の構築方法と、情報を用いた「報徳仕法」構想に関する素案 2025 #5

長谷川 雄治
読了見込 26
国際情勢も国政も先が読めない今日だからこそ、インターネットの片隅で次の社会構想を好き勝手に放言しようという取り組み。情報や報徳仕法の再解釈や、詰めの甘い思想を素人が垂れ流していくシリーズ第五弾。

第三章 情報を用いた「報徳仕法」構想

第一節 情報主義社会を目指して

第二章では、4つの補助線や未来予測を通じて、情報を通貨や流通財として捉えるための視点を提案してきた。
そこでは、思考がまだ及びきれていない点や、技術的・構造的な制約、個人の手には負えない課題も多く残されていることもお伝えしてきた。

しかし、だからといって、「いつかそんな社会が訪れたらいいのに」と願っているだけでは、何も変わらない。重たい腰を上げ、実現したい理想に向かって動かなければ、夢は夢のままであり、「いつか」は永遠に訪れない。30代も半ばを超え、若手とは言われなくなった良いオトナとして、そんなことは流石に理解している。

現時点では、決済や会計、地域通貨やセキュアなポイント制度といった根幹の仕組みが整っていない。それでも今の段階で、できること・始められることはある。

本節では、来るべき情報主義社会をただ座して待つのではなく、自ら迎えに行くために、過去の歴史や既存の事例も参考にしながら、地図を描いてみよう。

まずは、筆者の手が届く範囲で分かっていること、何より厄介に思える基幹システムの欠如について解決しよう。Webサイト制作やマーケティングに携わる実務者として、2025年6月や7月の時点でも、情報を適切に設計・集約し、ペルソナやカスタマージャーニーを意識した施策を行えば、まだまだ十分に通用するという手応えがある。

もちろん、SNS上のUGCやレビュー、オンライン・オフラインを問わずに広がる口コミといった「情報」も、経済的にプラスの作用をもたらすことは間違いない。
ステルスマーケティングやフェイクを交えた誇大広告、優良誤認を狙った「物語」はご法度だが、いわゆる「パーパス」や「ストーリー」を組み込んだマーケティングやブランディングの手法も、まだまだ花盛りといえる。

このように、「情報」も「物語(ナラティブ)」も、情報主義社会の実現を待たなくても、現在の資本主義社会の中で十分に機能していることは明らかだ。コンテンツ産業やメディア事業、販売促進などの領域も同様である。

むしろ、市場が成熟した先進各国においては、「情報」や、思い出・習慣を含む「物語(ナラティブ)」こそが、消費者に選ばれる理由となっている。例えば、食事ですら、味や栄養といった機能だけでなく、その背景にあるストーリーや生産者のこだわりといった「情報」を消費している節がある。

もちろん、財布に余裕がなければ厳しい場合もあるが、「情報」や「物語」を希求することは、人間にとっての普遍的な欲求であると言っても、差し支えないだろう。

問題や懸念があるとすれば、その「影響力の強さ」にある。

SEOやマーケティングを意識して情報を整理するだけで、多少なりとも効果が現れるということは、情報を機能させる行為そのものが、利益に直結する可能性をはらんでいるということだ。情報には、それだけのポテンシャルが秘められている。

ただ、現在の日本の税制――特に社会保険料を含む負担率の大きさや、減税される可能性が低そうな国政の動向を踏まえると、稼ぎ過ぎはメリットを上回るデメリットを生む可能性すらある。だからこそ、補助金や助成金といった公金を得て、NPOを運営するライフハックが好まれているのかもしれない。

もちろん、私自身の実力では、そこまでの影響を与えられるとは思っていない。完全に自意識過剰か、単なる杞憂だろう。それでも、「決済」の部分を情報主義的な枠組みに置き換え、資本主義の外縁で、既存の法体系とも摩擦なく共存できる「方便」として運用できるのであれば――余計な負担を増やすことなく、より手厚いカスタマーサクセスを支援できる可能性がある、とは考えている。

つまり、「今すぐ必要不可欠なシステム」というわけではない。
ただ、「情報」を「情報」のまま融通し合い、それを再生産することの意味と価値が実感されるようになれば、あるいはそうした実証が進めば、機能不全で硬直化しつつある社会を変える選択肢として、現実味を帯びてくるのでは、とも期待している。

何もしてくれそうにない現政権、あるいは次期参院選後の行政府に、これ以上、税金や社会保険料を余計に取られたくない――そんな不満さえ飲み込めるのであれば、今からでも「情報」の恩恵を受けること自体は、十分に可能だ。

さらに、「情報の評価」や「エピジェネティックチェーン」のような履歴の蓄積・参照については、一旦Googleのアルゴリズムに身を委ねるという、現実的な選択も取れる。

多少のコストはかかるが、独自ドメインとオウンドメディア、あるいはポートフォリオサイトを組み合わせれば、個人の行動や経験の履歴について、それなりのカバーは可能だろう。

言語化、もしくは画像や映像といった可視化の手間は避けられないが、SNSでの投稿を、評価を蓄積するためのハブとして独自ドメインへ接続できるようにしておけば、そこまで多大な負担にはならないはずだ。

独自ドメインで運用するWebサイトの方に、NewsArticleAuthorPublisherのJSON-LDに、sameAsを使って関連SNSのアカウントを紐付けておけば、たとえSNSでしか投稿していなかったとしても、評価は緩やかに伝播していくーーような気がする。

我田引水が過ぎるだろうが、仮に情報主義社会を実現するとなれば、個人のエピジェネティックチェーンのような履歴体型を構築する上で、その起点となるのは、独自ドメインよりも、日本のマイナンバーや、米国の社会保障番号・REAL IDそいった身分証明制度、あるいはクレジットヒストリーのような経済的履歴になるのではないかと考えている。

中国本土で実現されている「社会信用スコア」も、構造としては近い印象がある。ただし、中央集権的な監視ではなく、プライバシーに配慮された分散的な仕組みのもと、緩やかに個人の行動履歴が記録され、本人が管理するウォレット的な情報保有構造と同期するような形が望ましいだろう。

現時点では、オンラインにおける「ドメインパワー」や「Authorへの評価」といった、Web上の可視的評価軸が、その萌芽的な機能を果たしているように思える。
このまま検索エンジンや分散型ID技術が発展していくとすれば、個人の発信や関与の記録がエピジェネティックに蓄積され、評価される社会が一歩一歩近づいてくるのではないだろうか。

情報主義社会や情報流通網へアクセスするには、何らかのアカウント作成やログイン手続きが前提となるだろう。その先に広がる世界こそが、本来の意味でのメタバースであり、そこで蓄積されていくエピジェネティックな記録こそが、新たな資産となる。

アカウントやログインが必須というのは、一見すると煩わしく、自由なアクセスを妨げる障壁のようにも思える。民主化や公平性の観点から、どこか噛み合わない印象を抱かせるかもしれない。しかし、これを適切に運用できれば、現行制度における不正な取引や徴税の取りっぱぐれといった、見えにくいコストは確実に減らせるだろう。

行政府が発行する公的なIDを起点にすれば、その国の国籍や永住権を持つ人々は、出生届や永住許可の取得と同時に、アカウントを付与できる。居住・就労ビザを持つ移民についても、一定の手続きにより、ビジターアカウントを柔軟に発行できるだろう。

裏を返せば、不法移民や反社会的勢力は流通網から締め出され、不法就労や資金洗浄などの抑止にも繋がる。分散型IDのトレースが伴えば、そうした効果はさらに高まるはずだ。結果として、善良な市民にとってはより公平な社会が実現され、将来的な税負担の軽減にも繋がる可能性がある。

アカウントやログインが重要な社会では、現在のSNSやネット銀行、証券口座などで見られるような不正アクセスのリスクが、より深刻な問題になってくる。なりすましや本人確認、アカウントの乗っ取り、さらにはアカウント売買といったリスクも当然想定される。そのため、量子コンピュータ技術を駆使した堅牢なセキュリティの整備は、情報主義社会を構築する上で不可欠な前提条件と言えるだろう。

現在から未来にかけての展望を描いてきたが、ここで一度、過去に目を転じてみたい。現代の「資本主義」がどのように発展してきたかを振り返ることで、「情報主義」を目指す上で参考になるヒントが見えてくるかもしれない。

ここで注目したいのは、昭和の「高度経済成長期」と、明治維新後の「富国強兵」の時代だ。前者は「一億総中流」とも呼ばれ、後者においても「強兵」は国家主導だったが、「富国」はむしろ力強い民間の需要によって成し遂げられた。

どちらの時代にも共通していたのは、流動性の強いキャッシュが国民の大多数に行き渡っていた点にある。「所得倍増計画」などを通じて生み出された十分な可処分所得は、それを使えば使うほど、自分も社会も豊かになるという手応えに繋がった。いずれの時代も社会全体に活気があり、将来を悲観する暇もなかったのだろう。

このような歴史を踏まえるなら、「情報主義」社会を実現するために必要なのは、まず第一に「情報」を社会の中で増やすこと。次に、その情報の流通性・循環性を高めること。そして、一人ひとりが情報を扱うリテラシーを高め、個人のこだわりや好みといった「鑑定眼」や「哲学」を携えて生きることだろう。

社会を構成する国民の大多数が、「情報」を保有していること。そして「情報」を増やせば増やすほど、豊かになると実感できる状態を確立できれば、あとは技術的な課題が解決されるのを待つだけになる。

具体的に、どうやって情報を増やし、どう循環させていくのか。そのヒントを探るために、新たに一万円札の顔となった「近代日本経済の父」渋沢栄一よりも更に遡り、渋沢的経営手法の源流とも言える二宮尊徳が主導した「報徳仕法」に注目してみたい。

第二節 情報を用いた「報徳仕法」

報徳仕法とは、報徳思想における「分度」と「推譲」の考え方を土台とした、藩や村を主な対象とした財政再建策の総称である。

具体的な政策手法に焦点を当てるなら、本来は「仕法」と呼称するのが適切だろう。「報徳」を冠すると思想的側面が強調されすぎたり、高校野球の名門校を想起させたりと、余計な先入観がついてしまう。しかし、「仕法」だけでは固有名詞としての強度に欠けるため、本稿では便宜的に「報徳仕法」と表記してきた。これ以降は、特別な理由がない限り「仕法」に統一する。

「仕法」とは、文字通り「法に仕える」。『大学』や『論語』など儒教のから影響を受けたとされる二宮尊徳にとって、この「法」は儒教的な規範を指すとも考えられるが、より講義には仏教における「」—すなわち普遍的な真理や法則に近いものであるように思う。

つまり、「こう働きかけると、結果はこうなる」という因果関係について、実践者でもあった二宮尊徳が自ら導き出した、再現性の高い仕組みにまで昇華させたものが「仕法」の本質だろう。

非常に卑近な例えにはなるが、いわゆる「ライザップ」のようなものだ。日々の運動や食事を記録し、コーチがつきっきりでデータをチェックしながら、理想の体型を目指す。毎回の体重や摂取カロリー、運動内容の変化を丹念に追いながら、その都度アドバイスを加えて最適化を図る。その結果、再現性の高い成果に辿り着く。

このように、いつでも再現可能な仕組みとしての「法」に「仕える」からこそ「仕法」なのだろう。

財政再建策としての「仕法」へ、もう一度立ち返ろう。
「仕法」の柱は「分度」と「推譲」である。

「分度」は、各世帯の徹底した財務調査や、豊作・凶作による変動要因も加味した、生産力の高度な分析に基づいて、妥当な租税を設定する行為だ。

「推譲」は、余剰資金をタンスに眠らせるのではなく、信託基金や地域ファンドとして共同体に預け、循環的に活用するための仕組みである。

日々真面目に働けば、「分度」に応じて無理なく納税できる仕組みがあり、そこから生まれる余剰を「推譲」することで、地域全体の富が再分配・再投資され、さらに生産力の底上げに繋がっていく。

貧困に苦しむ世帯に対しては、返済能力に応じた低金利または無利息の貸し付けを信託基金から行い、負のスパイラルを断ち切ると同時に、地域・藩全体の財政再建にも寄与する構造になっている。

尊徳は経済と道徳の両立を説いたが、理性的・理知的に考えれば、自己利益を最大化しようとすれば、「至誠・勤労・分度・推譲」という道徳へ自然と辿り着くようになっていた、とも言えるだろう。

現代でも貧困地域や困窮家庭を支援する際、短期的なメリットに飛びついて長期的に問題のある選択をしてしまいがちだが、「仕法」はそういった選択ミスを理性的に回避する。単に口先の介入にとどまらず、しっかり監督者として現場に立ち、コーチとして寄り添いながら、自立可能な仕組みをそれぞれの地域で作り上げていく。その実践と実行力こそが「仕法」の本質である。

完全な自由主義でも、社会主義的な計画経済でもない。
「至誠・勤労」へのインセンティブを制度として設計し、「ギバーズゲイン」や「複利効果」といった、ほとんど自然法則に近い真理を、「推譲」や信託基金、地域ファンドの形で実装する。

短期的にも長期的にも、無理なく「資本」が循環し、自然と増えていく――自走する経済の構築である。

もしこれを「情報」に置き換えて実装できるなら、「情報」を保有する個人の増加や、情報が情報を生み、情報同士が繋がり合う社会も実現できるのではないか。そうした「情報」を流通財・通貨と見立てて、「仕法」を捉え直してみよう――この発想こそが、本稿の出発点である。

つまり、ここからが本番となるはずだが、この先についてはまだ思考が十分に及んでいない。

「分度」や「推譲」を実現しようとするには、それなりに閉じた制度設計や決済システム、貢献度や交換履歴を記録する会計基盤などが必要になる。しかし、そうした環境整備は行き届いていない。情報を生み出し、増やすインセンティブとして、最低限のポイントシステムのようなものでもあれば前進しそうだが、中途半端なものを作っても逆効果であり、最低限の壁すら乗り越えられていない。

ようやく捻り出せたのは、「循環させる情報や物語を蓄積する先が必要ではないか」とか、「情報を持たない者には、無理やり貸し付けるべきかもしれない」といった程度の発想である。そこから、どのように再生産させ、循環させ、経済的価値に結びつけていくかまでは、全く見通せていない。

「情報」の循環に参加するメリットやインセンティブ、その設計だけでも提示できれば良かったのだが、結局のところ「ベースロード電源」のようにジワジワ効果を発揮するオウンドメディアや個人サイトの構築を支援し、情報設計や発信を後押しする程度が関の山であろう。

タイトルには大きなことを掲げながら、結果的に中身はほとんど語れなかった。
素案と呼ぶには余りに不十分で、非常に情けないながら、ここが正直な限界である。

思想・構想

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長谷川 雄治(仮面ライター)

Yuji Hasegawa (KamenWriter)

昭和63年生まれ。大阪電気通信大学 総合情報学部 デジタルゲーム学科卒。
2011年からWeb制作に従事。コーディングやWordPressのカスタマイズ等を主に経験を積む。2013年、仮面ライターとして独立開業。マーケティングや企画、上流も下流も幅広く対応。
コーディングとコンテンツ制作の同時提供を考えるヘンな人。

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